ロンリープラネットを片手に一番安い宿に投宿。
問題が一つあった僕はそれを解決させる為宿のにいちゃんと町に出る。ヨーロッパを自転車旅行した流れで来た僕はバックパックと呼ばれる必須アイテムを持っていなかった。持ってるのは自転車の後輪用バック(大)×2,同じく自転車のフロントバック(小)と普通のリュックだった。数だけあって持ち運びには滅法弱い彼等と過ごすにはアフリカは過酷に感じた。
まずは近くの雑貨屋から廻ってデパートらしき建物、バックが無数に壁にかけられている店まで見たのだ
がバックパックは一つも無く、ホントにない!腹を減らした黒い兄弟に食事を振る舞いに普通なら入れそうも無い店に入る。
ケニア人が何故マラソンに強いか?の答えだという豆料理をたらふく喰い一旦宿に戻った。結局買えなかったと凹む日本人に兄弟は昔のバックパッカーから買ったというバックパックを見せた。(正確には3日後。その間日本人はサファリツアーに参加していて留守だった。)かなり吹っかけられたがそれでも質とサイズは文句なく納得いく物だったので購入。
これでようやく旅の体裁が整ったわけである。
明けて日曜日、さっさとこの街とおさらばしたい日本人は次の日の早朝のバスの予約をし両替えも済ませ時間を持て余す。港町としても有名なダル…は魚市場も活気があって魚臭さがなんとも郷愁を醸し出す、その魚市場からなにやらフェリーとも水上エレベーターとも呼べそうな貨物&人輸送機が出ていたので乗ってみる事にした。向こう岸まで5,60m位、配線が渡してあってそこを2,30分置きに往復している市民の足であった。所要時間は1分位。上陸後人気の無いビーチらしき場所に腰を据えケニアで買ったマリンバ (カリンバ)を一人奏で昨日の反省と明日からの旅に思いを馳せる。
そこへいかつい体をした少年が近付いて来た。彼はスワヒリ語ももちろん英語もってか言葉が不自由そうであった。そんな彼とマリンバ(カリンバ)を奏でた。日本人が奏でタンザニア人がそれを真似るという図式は奇妙に僕を勇気付けた。さらにそこへ身なり良い小綺麗な優男が現れた。彼は英語が出来たのである程度コミュニケーションが取れたが、危険な香りがプンプンとしていた。だいたい良い大人が(たぶん30位?あんま歳わかんないけど)昼間からマリファナやらなんやらと話し、暇してるってのが怪しい。
しかし人間バイオリズムが落ちてると人に強く言えないもんで、なんだかんだと話すうちにもっと奥地のビーチまで一緒に来ていた。英語の彼はなんやかんや説明してくれ意外と良い奴かもと思い始めた矢先とうとうってかやっぱ事件は起こった。
彼等は日本人を逃がさないかの様に両脇に座り前は人気の全く無いビーチ後ろは生い茂る木により逃げようのない状況へと僕を導いた。
そして、僕の右側から一人、前のビーチから一人長い棒状のものに布を巻き付けた男達が現れ近付いて来た。近付きながらその布をクルクルと外しニヤッと笑ったのを憶えている。
続く
男はヤケに目立つ白い歯を見せ布を左手にそして右手に反り返る大きな刃を持つ青龍刀らしきものを持ってこう言いました。
「I'm mafia do you know?」
もちろん体育座りの日本人は見上げながら
I know.....
その瞬間今までなんやかんや話してた両サイドの現地人は僕のバックをむしり取り短パンの中にも手を入れてきました。短パンに手を入れたのは旅行者用の腹巻きを奪うため。そんなもんはしちゃいないが、持ってたけど。。 意外と頭だけは冷静で知らぬ間に立ち上がっていた僕は素早く状況を把握しどのようにすべきか脳みそフル回転させたものの。 バックを奪ったがカギが番号式なので開けれない仲間を見たボスらしき奴が、
開けるか死ぬか、どっちだ?
はい。開けます。
立ち位置は真向かいに奇麗な青龍刀(?)一人、右側にボス、左側にさっきまで両サイドに座ってた二人、手にはバック。
ボスの刀は何故か3分の1程先端が欠けていて、それを確認した右目は即座に危険信号を脳みそに送った。
使ったんじゃん!何か堅いのもん切ったんじゃん!
しかし、彼等は何かに脅えてる様にも見えた。
なぜなら日本人=アジア人=ブルース・リーだから。
下は砂、サンダルの先っちょに砂乗せて蹴り上げ目の前の奇麗な青龍刀の奴に眼潰し&蹴り&刀を奪い ポーズを決めればいける! こんな奴らに負けてなるものか! びびって逃げてく絵を浮かべ回りを見る。
んん〜やっぱ無理か?足が思い通りに動くか自信が持てないなと考えている間にバックの中身は無様に打ちまけられ死肉を漁るハイエナよろしくな状況へ。
パスポートは止めて!!
ボス曰く 俺らは良いマフィアだからパスポートは盗らない、クレジッ トカードは何処だ?
持ってない。(シティーバンクのカードはあるけど。タンザニアにはま だシティーバンクが無かった。)
チッと舌打ちしたのち渋る仲間を連れて、来た時とは反対の方角へと走 り去った。
ふぅ〜
初めて恐怖を感じ足が、手が、震え 震えながらなんとか残った荷物をバックに掻き入れて、来た道を猛ダッシュで走った。走りながら何かが引っかかる。何だ? 何が引っかかる? 何かを忘れた!戻るか?
いや、まだ近くに奴らがいるかも知れない。どうする?しかしこのままでは絶対後悔する。そう思った日本人は元居た現場へ恐る恐る戻っ
た。誰も居ない。ふぅ〜
そして、明日の朝のバスのチケットを発見した。
その後は警察に行き説明するも「この国にはマフィアは居ない。その辺のチンピラだろう。」と言われ、適当に調書を作られヘトヘトになっ て宿に帰った。
その警察署で一人の日本人に出会った。実に1ヶ月ぶりに日本語を耳にした。彼は文化人類学をしていて調査に来ていた。その日はカメラをバスの中で盗まれたと言っていた。バックをナイフで切られ盗られたらしい。彼に聞いたのだが、僕が強盗に遭っていた場所ではよくバラバラ死体が見つかるらしいと。
あれか?あの欠けてたあれか?と背筋をゾクゾクさせながら、あの時歯向かっていたらどうなっていたのかと考えもう一度ゾクゾクした事を記憶している。
余談だが、強盗に遭う前の所持金は200ドル、後は100ドル程になっていた。(宿に半分置いておいた。)問題はシティーバンクが確実に使えるのは南アフリカであるということだった。地図を見ればわかるが、間にはかなりの距離がある。途中の国で使えれば良いが、使えなかった場合移動費&宿代&食費を最高に切り詰めねばならない(ってかホントにやばかった、3日でパンと水のみってのもあった。)生き残れるか?それが最大にして、身近な問題であった。
盗られた物は金,ケニアで買った腕輪,友達と取り替えて日本を出た時計,あと何か。
時計は日本に帰ったらまた取り替えるという約束付きだった。
次回マラリア編inモザンビークでお送りします。
強盗事件以降、黒人恐怖症というか不信感に苛まれていた。
だが、それも色々あって解消され、お金の事もなんとかなり僕はジンバブエを後にしモザンビークへと旅を続けていた。
行路はタンザニア→マラウイ→ザンビア→ジンバブエ→モザンビークである。
僕はジンバブエを出る際に日本人旅行客に,「モザンビークはマラリア多いらしいよ。」と言われ、しばらく飲まずに居たタブレットを飲んでから出国をした。(週に一錠飲む薬:掛かった時に症状が悪化しない様に前もって対処薬を薄めたものを飲む)ジンバブエのハラレ(首都)からバスで8時間位かけてベイラという綺麗なビーチのある街に到着。
着いたその日はまたしてもロンリープラネット掲載の最安値の宿へ投宿し、街をぶらつく。特に何もないけどゆったりとした街の雰囲気を堪能し宿へ戻る。アフリカにありがちなモスキートネットには、やはり穴が空いていた為,蚊とひとまず格闘し、眠りにつく。(安宿のネットは穴だらけって事は知ってたけど時間がなかった。)次の日近くのビーチでキャンプ出来ると聞き付け、早速移動しテントを張りビーチで昼からビールを呑む。
最高に気持ちの良い風が吹き日差しも最高だった。
そこで知り合った英語を話せる現地人(モザンビークの公用語はポルトガル語)に街を案内してもらい夕方またビーチのレストランで二人で ビールを呑む。BGMはボブ・マーリーが歌ってくれた。気付くと周りには現地人達、みんな Bob from Africa!と口々に言い歌っていた。
最高の夕暮れだった。
それに気が付くまでは。
続く。
時は1999年12月中旬、アフリカにはノストラダムスは居ない。
始めはビール2杯で酔ったのかな?
そんな気怠さを感じ、今日は寝ると言いテントに戻った。テントで横になり最近酒呑んでなかったし、移動で疲れたんだろうと自分を納得させようとしていた。
が、
直感的に感じた。
あ、マラリアだ!と。
二日前に飲んだ薬をまた飲み、勘違いであってくれと願い眠りにつく。
2−3時間後に悪寒と頭痛と全身のだるさが僕を目覚めさせる。
危険な信号を送り続ける。
信号は限りなく赤に近い。
他人の体に入り込んだ様に上手くコントロール出来ない体を引きずって管理人のオフィスへと行き、マラリアだ。と伝える。
少しのやり取りの後案内人と共に乗りあいバスで近くの病院へと向かう。病院の待合室にはかなりの人が同じ理由で待っていた。ぼんやり
した意識の中で「こりゃぁ時間かかるなぁ」と考えていたが意外にあっさり番が回って来る。案内人が何か言ってくれたのかも知れない。
左手の人さし指の先を針で刺し,血をプレートに。薬を貰い(お金を払ったかは定かじゃない)明日検査結果を聞きに来るように言われ元来た道を英語を話せないモザンビーク人とポルトガル語の出来ない日本人は無言で戻る。就寝。
次の日は上から下から出るもん数度出し、全身の筋肉痛を引きずって一人で昨日の病院へ。検査結果を聞きに来たと受付で言う。もちろん分かりきってはいたが一応聞きたかったんだと思う。
しかし結果は…
名前が無い。
っておい!
頭朦朧の日本人は必死の形相で食って掛かる。言葉はめちゃくちゃだが必死さは伝わった(かどうかは分からないが)のかアラブ系の偉そうな医者が現れ名前を日本人自身で確認させてくれた。
日付け Satoshi Hoshi +
Aa ~you are positive.(分かってるっちゅーねん)
一週間して治らなかったらmore strongなのを打って(手で注射のジェスチャー)やるから来いと言われた。
注射は嫌いだ。
結局3日間寝込み4日目の朝、またしても直感的に
治った!
風呂と洗濯を済ませ久々まともなものを食べに街へ。こんな処でくたばって堪るか。
元気だとモザンビーク結構好きだ。
そして旅はまだ続く。
余談:症状としては反吐、下痢、筋肉痛、悪寒、意識混濁(薬の所為かも)まぁ食あたりとインフルエンザのミックスした感じ。3日間5枚のT-シャツをローテンションさせながら過ごしてた。4枚目を着て寝てる時に、使用済み3枚をテントの上に干して、5枚目を着る時に回収(もう乾いてる)を何度かやった。もちろん洗濯&風呂はなし。食ってたのは果物の缶詰(高い!)と水。3日目に回復してからは、スープ。自炊する力はまだなかった。
嫌いな虫:クモ、アリ、蚊。
年内中にアリ地獄編inマラウイ を更新予定
時は1999年、モザンビークよりも前の出来事、ケニアーウガンダータンザニア(強盗編)と移動して来た日本人。正直、現地人を誰一人信用出来ない精神状態で居た。バスでタンザニアとマラウイの国境へ、さっさとこの国とおさらばしたい日本人は出国を済ませ、歩いてマラウイ入国管理所へ。そこで待っていたのは無知と現実と言う腹を下しそうな組み合わせであった。
今はどうか知らないが、20世紀はケニアとタンザニアと日本との間では入国に当たってVISAは必要なかったのである。ヨーロッパ(イギリス、フランス、スペイン、イタリアだけ)を回ってから来た時点で一度も必要がなかった、「VISAは?」の質問で目が点になる日本人。人生で初めてVISAが必要とマラウイの国境で知る、この事の意味をご理解出来るだろうか?小さめの絶望である。笑
とは言え、そこは旅慣れて来た疲れた日本人である。
「どうすれば良い?」「ダルエスサラームに戻って取って来い」
「無理!そこで強盗にあって、二度と行きたく無い!!!!(必死)」書類もある!
という事で所長?室へ連れて行かれ、書類を見せる。この時マジで警察行っておいて良かった!文化人類学の人に会えて通訳して貰えて書類を出してもらえて本当に良かった!ありがとう文化人類学の人!と心底思った。
感謝は今も(2014年)忘れてません。
まぁさすがアフリカである。ちょっと悩んだ後この先の街でVISA取る事を条件に国境を通してくれ事なきを得る。チャリタクに乗り近くの街まで行き、いつも通りロンリープラネット記載の最安値の宿へ。しかも中庭があるとの事でそこでキャンプと言い出す日本人を奇異な目で見るマラウイの従業員。段々色々気にならなく成って来ました。知ってるかも知れませんが、VISA取るのって行ってすぐ取れる訳ではありません。アフリカでも勿論そうです。次の日朝から長蛇の列に並び申請をしてお金掛かるのかぁと財布と睨めっこしながらこの先の資金繰りについて思案しながら街を歩く。町の人達に凝視される。何故か分からず暫くすると変な親父が(目がイッてた)軽く絡んでくる。怯まず目を見返す何とかやり過ごす。
その時、あ!俺外人だ!と気付く。遅!
その日の食事は水とポメスだけ。食費は切り詰め始めていた。
夜テントの中で今後の行程を地図を見ながら考える。テーマは何処まで行けばCitiBankのカードが使えるか!?マラウイの銀行のATMでは使えなかったから次はザンビアかジンバブエだけど…こんな感じで眠りつく。そう、この時までは想像もしていなかった。自然の刃がすぐそこまで来ている事を
つづく